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空手考察
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1、心の外に拳無し

今日、各地の大学の空手部や一部の流派団体で、挨拶や返事として交わされている「押忍(オス)」という言葉がある。

語源については、元々は大学の応援団などで用いられたもので、「耐えがたきを 耐え 忍びがたきを忍び 押さば押せ 引かば押せ これすなわち 自己滅却の精神也 我が道に いかに険しき山あれど踏みてぞ越えん 押忍の精神」に由来する可能性が大きい。
残念ながら、なぜ「オス」と読むのかは判らなかった。
「オはようございまス」の挨拶に由来する説が有力だが、その他諸説あるようだ。

元々、剛柔流に限らず、沖縄発祥の空手流派では「押忍」の挨拶も、概念も存在しなかった。
かつて空手が本土の大学の部活動の間に広まった際に、応援団などの影響からか、各校の空手部に「押忍」が浸透、定着したものと思われる。
一部の空手団体も使用しているが、多分にその影響を受けたものと推察する。
筆者も、学生時代に空手部での修行に於いて、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」の精神と教えられ、大声で「押忍!押忍!」の毎日であった。

だが、ある流派に携わると云うことは、その流派の技法のみならず、礼節の作法や思想等も同様に継承することである。
剛柔流に携わる者が「押忍」を使うことは、学生時代ならばいざ知れず、些か問題であると云える部分があることになるだろう。

だが、筆者は学生時代からの「忍び難きを忍ぶ」とした「押忍」に多少なりとの思い入れがある。
また「(刃)に(心)と一字で書く」とした、武人としての自制の精神を説くべくする「押忍」にも、捨て切れない思いが心中にある。
これは筆者の幼少の頃に「他人の痛みの分からぬ者に、武芸を行う資格は無い」と強く感じ、確信するに至った経験によるものである。

幕末に誕生した剣術流派に、江戸城無血開城の立役者と云われる山岡 鉄舟の興した無刀流(正式名称は一刀正伝無刀流)がある。
剣の境地を「無刀」であるとした日本剣術の集大成とも云える名流であるが、同時に「心の外に刀無し」とした理念哲学に由来する流名でもある。
これにあやかったとするならば、我々の「押忍」は「心の外に拳無し」とでも云ったところであろうか。

字面では「オス」とは「押」と「忍」の二文字より成り立ち、その内、忍は「刃」の下に「心」と合わせて一字で書く。
刃(日本刀)とは日本武士の魂であり、我々にしてれば拳技こそが刃である。
研かれていない刃は鈍ら(ナマクラ)であり、イザという時に本来の役に立たない。
同様に拳技も日頃より、研き鍛えておかねばならないのである。

当然として、切れ味鋭い刃は武器にもなるが、誤れば凶器にも成り得る。
無論、刃は抜身であってはならない。
武士は普段は刃を鞘に収め、無闇に抜き放つことは堅く戒められていたのである。
他者を死傷せしめる刀を持った武士は、同時に高い精神性を求められた訳である。
空手も同様に、真に必要な時以外にはその拳技を振るってはならない。

蛮勇で振るった技はすでに拳技ではなく、凶器に過ぎない。
理性という鞘に収めて制御してこそ理力としての「技」であり、これこそが「押忍」の精神の一面であると信じたい。
掛かり来る外敵を制圧すると同時に、自己の我欲や脆弱さ等の負の面を抑(押)え制す道であるべきと考える。

剛柔流としての概念では無く、筆者の経験による独自の理念であることは言うまでも無い。
だが、尚誠館では、この思想に基づき、加えて互いの修行の成功と無事を祈って、互いに尊重し拝し合う為のものとして「押忍」と挨拶しているものである。

心の外に拳無し、刃に心の一字を以って、この斯道を押し通りたい。

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